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いよいよ葬儀ですが

 ・妹の死亡届を出したので、葬儀、埋葬を行えることになった。じゃあすぐに、というわけにはいかないのが悩ましいところだった。火葬場、葬祭場、お寺という三者のスケジュールの調整になる。ネック、というのも失礼だが、難関だったのは火葬場の確保だった。 ・前年から、葬祭業者の担当者と話をしながら火葬場を想定していた。火葬場を併設した葬祭場にお世話になっていたお寺の住職にお越しいただき、火葬と葬儀を執り行うことにしていたが、日程がなかなか決められず、仮押えをばらしていた。改めて連絡してみたら、火葬場の空きがありません。 ・2週間以上先になるという。慌てて他の火葬場を探す。見つかったが日程は1週間ほど先になる。葬祭場もあるのだがこちらは予約が取れず、火葬後、遺骨をもってお寺に移動。葬儀を行ってもらうことになった。「うちのご本尊の前で、お経をあげれば、妹さんも安心するでしょう」と住職は言うが、一番安心したのは私だったのは言うまでもない。

死体検案書

 ・妹のDNA鑑定が終わったとの連絡を受け、遺体の搬送を依頼していた葬祭業者の方と相談して引き取りの段取りを相談。葬儀の日程も固まってきた。できれば引き取りに立ち会いたかったが、時間的に調整がつかずお任せする。 ・引き取り後、担当の方が死体検案書を我が家に届けてくれた。こんなに長く待たされるとは思わなかった。死因は「病死」。原因は「不詳」。司法解剖をしていないのは、事件性がないという判断か。 ・死亡日時は「9月下旬」。ピンポイントでの特定はできなかったらしい。母の命日が含まれる時期だったのは、何かの縁だろうか。ともあれこれで死亡届も出せる。やれやれ。死体検案書で解約などの手続きが可能なものもあるので、あちこち電話して手続きの確認。コールセンターに電話して手続きを、というものが多いのだが、コールセンターに電話しても全くつながらないものがいくつかあって往生する。 ・このころからコールセンターにかけ続け、いまだにオペレーターにつながらず、契約状況がわからないものが一件ある。何とかならんかTK電力。

とうとう年を越す

 ・たまには従来のスタイルの記述に戻ろうと思う。 ・年末年始は、コロナの影響もあり奥さんの実家に行くわけにもいかず、自宅で呆然として過ごしていた。仕方がないので、妹の手続きができるようになったらしなければならないことをリストアップをしていた。妹の部屋から見つかった亡父の通帳の内容が確認でき、銀行と話ができていたので、それを頼りに妹の件も伝えたところ、手続きについていろいろ教えてくれたが、やはり死亡届がカギ。 ・ほかにも必要な書類(全記録が記載された戸籍謄本など)についても教えてもらったが、それを成立させるのがそもそも死亡届や検案書なので、相変わらずの堂々巡りである。 ・世間では正月気分もそろそろ抜けようかという1月10日過ぎ、久々にM警察署のSさんから着信。「DNA鑑定、終わったそうです」「そうですか。で?」「血縁関係は間違いないそうです」。 ・「おめでとうございます」とでも言いそうな声のトーンだったが、こちらもそういう気分だったよ、正直。「すぐ火葬できますよね」「それが…」 ・検案書を作成する嘱託医が多忙のため、書類作成に2日ほどかかるとのこと。ここまで来たら2日は誤差だ。関係者に連絡を取る時間ができていいや、とか言いながら各所に電話。目の前にやるべきことがあるのはありがたい。

母のお墓をどうするか

 ・母を亡くして一人になった父は、さっさと新たな部屋を決め引っ越した。同じ建物だったこともあり、スタッフの皆さんにお手伝いいただいて移動したらしい。我々には「手伝ってくれ」の連絡もなかったと思う。 ・新し部屋を確認するため訪問し、スタッフの皆さんにご挨拶をする。訪問の件は、妹にも伝えたはずだが同行していなかったと思う。新しい住戸は、従来と同じ1階で、それまでの部屋から2部屋ほど離れたところだった。それまで母の見舞いのために訪問してくれていた親族のみなさんや、母が発病前に働いていた職場の同僚の皆さんに連絡。葬儀に参列してくれたお礼とともに、転居の件も報告した。 ・母の遺骨をどうするつもりか、気が進まないが聞いてみた。「〇〇(自分の実家)は遠いしなあ…」。自分の意志がないわけではないのだが、自分から言い出すことはしない。誰かが「こうしたら」と言い出すのを待つ、というか、態度でそう言わせるよう仕向けるのだ。 ・昔から、こういう人だったとは思うのだが、母が倒れて以来、家族として、結構大きい決断をしなければならないことが度々あったのだが、その度にこういう態度をとられ、辟易していた。 ・住まいの近くに新たに墓を構えるしかないのだが、自分からは言い出さない。責任を取りたくないのだ。そのあたりは一緒に話していた奥さんにも伝わり、このあとなども墓所の件を話しに訪れることになるのだが、帰途は毎回いらだった奥さんと車内で口論になった。 ・まあ、今になってみれば、この時、散々な目にあったがお墓を手に入れておいてよかったと思うのだが。 何度も

母を送ってからのことー3

 ・一人になった父をこのあとどうするか。気が重いがいろいろ考えた。 ・①われわれ夫婦が引き取る。②妹と一緒に住んでもらう。③妹が父の住まいに移り住む。どれも悲惨なことになりそうで、結論は出なかった。妹とも何度か話したように思うが、どうすればいいのか、全くわからなかった。 ・結論を出したのは父だった。「しばらく一人でこちらで暮らしたい」と連絡してきた。すでに、住んでいた住戸を解約し、一人用の部屋に契約しなおしていた。自らの年金でやっていけることも確認していた。健康状態は、その時何か問題になっていたこともなく、本人も心配がなかったのだろうと思う。 ・S市に引っ越した時、知り合いがいなくて不安じゃないかと心配する親族(母の兄)に、「知ってる人が近くにいなくてせいせいした」と言い放ち、唖然とさせただけのことはある。妹にも伝えたら、「良いんじゃない」と関心がなさげ。 ・一つは片付いたので懸案は一つ。母にどこのお墓に入ってもらうか、ということだけだった。これがまた大変だったのだ。

母を送ってからのことー2

 ・父の住まいについては、現状のままという選択肢があるので、急ぐ必要はなかった。問題は、母の遺骨をどうするかということだった。父の生まれ故郷であるG県T郡の山の中に父の家代々の墓所はあるにはあったが、父の住まいから車で早くても3時間ほど。私の住まいからでは優に4時間はかかる。 ・申し訳ないが、母にはこの墓所に入っていただくわけにはいかないだろうと考えていた。父も、墓参りに行けないようなところに納骨するつもりはなかったようだ。だからと言って、どうするという考えはなかった。何度聞いても「う~ん、どうしたものか」と言うばかり。誰かに決めてもらいたいという態度がありあり。結局、最終的には「お前に任せる」ということになった。 ・どうしたかったんだろう、本当は。なんでそんな態度だったのか、聞きたいと思うが、今となってはもう遅い(日記が残っているので、確認してみようと思う。これまでは見るのも嫌だったが)。 ・妹に父の意向を伝えたら、あきれていた。落ち着いたら、父の住まいの件も含め、一度話をしようという話をしたが、そこでどんな話をしたのか、記憶があいまいだ。

母を送ってからのことー1

 ・告別式、火葬もつつがなく終わりひと段落。妹の滞在が長くなっていたので、ひとまず先に自宅に戻ってもらうことにした。今後の検討課題を確認しながら食事をし、別れた。とりあえず父親の今後の生活のこと、母の納骨のことを決めねばならなかった。一度お互い自宅に戻って、落ち着いてから話し合おうと約束した。 ・私は翌日帰宅することにした。私はもう少し滞在することが可能だったが、奥さんの仕事の都合がつかなかったのだ。葬儀に参列してくれた皆さんを最寄り駅まで何度か往復して送り届け(奥さんの弟が手伝ってくれた)たあと、父の住まいに戻り、父と少し話をしようと思った。 ・案の定、話はできなかった。何を話しかけても、ふー、とため息をつく。「俺がこんな気持ちの時に、よくそんな話ができるな」という空気を全身から発していた。これが嫌で、私は父とコミュニケーションをとるのが大嫌いだった。しかし、母親の闘病期間を通じて、家族として決断しなければならないことがあり、極めてビジネスライクに話を進めることがあったが、そういう時に帰ってくるのは「お前の好きにすればいいじゃないか」という返事。 ・何も解決せず、嫌な気分になるだけということが度々あった。介護生活の前半、同居していた妹は、毎日そんなコミュニケーションを繰り返していたわけで、辛かったのではないかと思う。特に文句を言ってくることもなかったのが、今になってみると申し訳ないと思う。

母が亡くなる前後のことー6

 ・両親が暮らしていたのは北関東のある県のS市。その地方の中心でもあり交通の要衝である。周囲には工業団地がいくつかあるが、基本的には田畑が広がる農村地帯である。観光名所もなく、宿泊施設があるのか心配だった。 ・調べてみると、比較的大きなホテルが1軒。昔からの商人宿のような旅館が数軒あった。電話をすると、部屋は空いていそうだが、参列予定の人数を考えると2軒に分かれそうだったのだが、ホテルの方が事情を汲んで部屋にエクストラベッドを入れるなどの対応をしてくれてたので、皆さん同じホテルに泊まってもらえることになった。 ・葬儀はつつがなく進行した。奥さんの実家からもたくさん参列してもらい、いいお葬式だったと思う。奥さんの弟が車で参列者の送迎をしてくれて助かった。高齢の参列者は電車で来る方が多いのだが、葬祭場は駅からちょっと距離がある。タクシーもそれほど多くなかったのだ。 ・通夜が終わり、妹が斎場に母の遺体とともに泊ってくれることになった。急に参列してくれることになった父方の親族二人と一緒に過ごしてくれたのだ。どんな話をしたのか聞いておけばよかったと思うが、一緒に泊まったお二人もすでに亡くなりもう果たせない。

母が亡くなる前後のことー5

 ・両親の住まいに到着したとき、母の遺体は戻ってきていたのかどうか、記憶があいまいだが、対面したのは母がいつも寝ていた部屋だったと思う。車椅子への乗り降りが楽なようにベッドを置いていたが、このところ入院が続き、折り畳み式のベッドは別室に片付けられており、母は布団の上でほっとしたような顔をしていた。 ・なくなる前しばらくは、下顎呼吸になることもしばしばだったようなので、ようやく楽になったということか。妹が両親の住んでいた施設のスタッフに掛け合って、空き部屋を用意してくれていた。葬儀を済ますまで、しばらく滞在することになる。荷物を部屋に入れ、妹と今後の話をする。 ・とりあえず葬儀の段取りはついていたので、やることは親族への連絡ぐらい。ただ、遠方の方が多いので宿泊の手配をしなくてはならない。妹には親族に連絡をしてもらい、私は宿の確認と手配をした。父親は呆然とするばかり。 ・連絡がひと段落したところで、明日からの手続き関係の確認。母が倒れたときに銀行関係や社会保険関係の状況について父は全く把握しておらず、母の職場の方の協力や付き合いのあった金融機関の方々のご厚意で何とか乗り切った(何しろ父は一人で自分名義の口座から預金すら引き出せなかったのだ)という苦い経験から、口座などの情報は整理把握していたが、何しろ本人が動けそうもないので、段取りを決めながら近くの飲食店で飯をくった。

母が亡くなる前後のことー4

 ・結局、母のMRI検査は行われることは無かった。主治医は父に「どうしますか」と聞いていたようだが、父は先生にお任せするといったようだ(のちに主治医の先生が説明の中でそれとなく話をしてくれた)。体力的なこともあったし、状態がわかっても、改善するための手法も限られていたようだ。 ・父からは状況の報告は入ってきてはいたが、来るべき事態に備えた相談のようなものはなかった。ひたすら悪化する状況を前に、うろたえていたのだ。こちらもおろおろしているわけにはいかないので、妹と打ち合わせのために何度も話をした。 ・仕事の状況的に妹の方が動きやすかったので、調整してもらい、両親のもとに行く回数を増やしてもらった。私の方は、葬儀などの事態に向けて金銭的な準備。何度かそのあたりを父に相談して、財務状況を確認しようと思ったら、「そんな話をしている余裕なんかないんだよ!」とえらい剣幕で返されてあきらめた。 ・ここでも私の悪いところが出て、そういう言い合いが嫌なので、はっきりさせなかった。結果的に母が亡くなってから慌てて葬儀の準備を進めることになり、父は病院に紹介された葬儀業者の言われるままいろいろなことを決めてしまい、母は縁もゆかりもない宗派のお経で送られた。ちゃんとしてあげたかった、というのは、今でも心残りである。 ・妹は病院関係の連絡や、当時両親が住んでいた住まいのスタッフの方としっかりコミュニケーションをとり、そちらの方はスムーズだった。家の中のことなども、父はほとんど何もできなくなっていたので、そちらもよくやってくれた。 ・母の病状も変化がなくなったので、一度妹には自宅に戻ってもらった。数日後に私が母の様子を見に行こうとしていたある日、どうしても片付けなければならない仕事があり、当時勤めていた会社に向かう電車に乗車中、父から電話が入った。 ・「いよいよらしいので、これから病院に行く」。電車を降り、妹に連絡。すぐに病院に向かうことにした。出社して会社に事情を話し、一度帰宅して、妹をピックアップ。車でS市に向かった。

母が亡くなる前後のことー3

 ・母の最期に入院したのは、亡くなった年の8月の終わりごろだった。入院の知らせを受けた数日後、仕事である場所に出向いていたところスマホに病院から電話が入った。病院名は両親の住まいからすぐのところにある総合病院。相手は母の主治医の方だった。父に連絡がつかないので私のところに連絡を入れたとのこと。 ・父に何かあったかと嫌な予感もしたが、後で電話をしてみたら買い物に出ていただけだった。こういうこともあるのだから、携帯電話を持てと何度も言ったが、とうとう受け入れなかった。 ・主治医の電話は、母の状態が悪くなり、その後の処置や治療について相談をしたいというものだった。検査(梗塞が進んでいるので脳のMRI検査)をしたいのだが、体力が持つかどうか… ということだったが、すぐに駆け付けるわけにもいかない。 ・父の家に連絡したら、本人がいたのですぐに病院(車で3分ぐらい)に行ってもらうことに。妹にも連絡したが、出ない。その日の夜、折り返しが来たので事情を説明して、病院に行ってもらいたい旨告げたところ、了承してくれた。 ・その後、一か月ほど妹も、私も自宅と母の病院の間を行ったり来たり。頻繁にコミュニケーションをとることになった。

母が亡くなる前後のことー2

 ・妹のことを書こうと思っていたら、なんだか止まらなくなってきた。困ったな。 ・母の状況が悪化してきたころ、妹は私の電話にほとんど出なくなっていた。両親が転居を受け入れたころから交流が少なくなっていた。おそらく妹自身は両親が遠くに行くことには納得していなかったのだと思う。確認したわけではないが。 ・両親が転居した住まいは、公共交通機関を使って行くには、結構大変なところに位置していた(だから金額的にOKだったのだが)。妹は、マンションに同居する前に自分の車を所有していたはずだが、この頃には手放していたはずだ。父から年に数回、妹が住まいを訪れた話を聞いたが、いつも電車を使って来ていたという。私は頻繁に車で両親のところを訪れていたが、妹の足は遠のいていっていた。 ・母の状態が不安定になり始めたころから、状況を逐一妹の携帯に連絡を入れていたが、いつも留守電。本人と会話をすることは、まずできなかった。話をしたくないんだろうな、と感じて、それ以上のコミュニケーションをする努力をしなかった。どんな言葉が返ってくるか、これまで生きてきた中で予想ができた。それが嫌で仕方がなかったのだ。 ・そのことが結局、今回の件につながるわけなのだが。

母が亡くなる前後のことー1

 ・脳梗塞で倒れ、自宅で闘病を続けていた母が亡くなったのは妹が一人で暮らすようになって9年ごのこと。父母は北関東のある県のS市に暮らしていた。われわれ夫婦と両親で暮らすようになって2年ほど経った頃から、父親も年齢的なことからか体調を崩すことが相次ぎ、そのたびにわれわれが対応を余儀なくされ、少し参っていた。 ・どうしようかと考え、高齢者向けのケア付きマンションみたいなところへ、父母だけでも転居したらどうかと勧めてみた。最初は父は大反対。「そんなところに入る金なんかない」と言い張るが、首都圏にある高級老人ホームに入居するにはうん千万というようなテレビ番組ばかり見ていて、何もわからずに反発していたのだ。 ・父は、当時住んでいたマンションを購入するときに一部資金を出していて(残りはほとんど私が手持ちと住宅ローンで賄ったのだが)、そこを終の棲家にするつもりですっかり自分の役割をおえたつもりだったのだ。ただ、一家共倒れをするわけにもいかないのであちこち手を尽くして父母が暮らせてコスト的にも何とかなる住居を探して、S市にそのような施設があるのを見つけ、父の年金と母の障がい者年金で十分暮らしていけることも確かめて提案したら、意外とあっさり承諾した。 ・住まいと同じ建物に診療所があり、ケアの知識を持つスタッフが常駐していることが響いたらしい。本人も体調に不安を持っていたらしいが、そういうことは早く言ってくれよと思う。 ・そちらに転居して五年ほど。静かなところだったので、一時母の病状も落ち着いたが、闘病10年を超えるころになると、母の状態も不安定になり、入院することも多くなっていた。

年末年始の記憶がはっきりしない

 ・これを書くために、妹が亡くなってからメモをつけていた手帳を確認してみたが、年末に近づくにつれて記述がどんどん少なくなっていた。googleカレンダーを見ても、当然だが記録はない。記憶をたどってもあやふやだ。 ・コロナの感染状況もあり、毎年恒例の奥さんの実家にも行けず、時間さえあれば寝てばかりいたのだと思う。あちこちの親族に報告の電話をしていた記憶もある。父親の兄弟が亡くなったことによる遺産相続のあれこれも、当事者の一人である妹の死亡届が提出できないので、対応できないままだった。 ・妹の件で不動産屋さん、警察から連絡をもらうまで、妹について把握していたことは前回までに書いたことがほぼすべて。彼女が家を出てから顔を合わせて話をしたのは本当に数えるほどだった。仕事のこともたまに父親経由で聞くこともあったが、何とかやっているようだった。 ・妹とその後長時間会話をしたのは、脳梗塞で闘病中だった母の病状が悪化、亡くなることになる2007年の夏頃だった。 ・

妹について把握していたことー8

 ・妹がカーフェリーの客室乗務員の仕事をしていたことは以前にも書いた。この仕事をしていたのはそれほど長くなかった。遺品の片づけをしていて、船の乗組員向けの年金手帳や雇用保険の書類が出てきたので、そのあたり、確認してみようと思う。 ・カーフェリーを辞め、陸上の仕事についてからは、ずっと販売の仕事をしていた(はずである。付き合いがなかったので、その間別の仕事をしていたのかどうか、はっきりわかっていないのだが)。私が把握しているのは、アパートの最寄り駅近くにある、元デパートだったショッピングセンターと、横浜の港北ニュータウンにあるデパートの2か所。 ・どちらも時計売り場だった。最寄り駅近くのショッピングセンターは、私もよく利用していたので、偶然顔を合わせることがあった。港北ニュータウンの方は、職場が移ったことを父親から聞き、会いに出かけた。親戚の法事などに顔を出さなくなっていたので、一度話をしておこうと思ったのだ。 ・ただ、この時も、それほど突っ込んだ話をすることはできなかった。もう、我々との接触を避けるような態度だったのだ。

妹について把握していたことー7

 ・私が結婚してからの暮らし方については、もちろん父親を含めて妹となどか話し合った。同居することについては特段の感想を口にしなかった妹だったが、私の結婚相手が同居をOKしたことに、最初は驚いていた。 ・そんな殊勝な人がいるとは思わなかった、ということだった。私もそう思ったのだから当然である。大変だと思うよ、という言葉に実感がこもっていた。自分がマンションを出ることについては、負担が無くなってありがたい、と言ってはいたが、本心のところは、今思うとよくわからない。 ・父親とはぶつかってばかりだったが、母の介護をし続けたかったのではないか。今となってはそう思う。当時は、私はともかく妹を父親との確執から解放してやりたい一心だった。とにかくいさかいが嫌だったのだ。もっといろいろ考えることがあったはずだった。みんなが楽になる介護のスタイルがあったはずだった。今更遅いがそう思う。知識がなかったのはもちろんだが、考える努力をしていなかった。とにかく感情的、情緒的に嫌なことを排除したいだけだったのだ。 ・その後、たまに妹がマンションにやってきたことを父から聞き、元気そうなことを確認して安心していた。

妹について把握していたことー6

 ・妹が同居していたマンションを出たのは、一緒に暮らし始めてから2年ほど経過したころだった。そろそろ同居は厳しいな、と思い始めていたところ、私と交際相手が結婚することになり、彼女が「同居してもいい」と言ってくれたのがきっかけだった。 ・その後奥さんは、父と同居することでさんざん苦労した。正月など、自身の実家に戻るたびに愚痴をこぼしているが、お義母さんや叔母さんたちに、「だからあの時止めたのに」と言われ、そのたびにへこんでいる。申し訳ないが、その通りだと思う。私が言ってはいけないが。 ・妹は、同居していたマンションの最寄り駅の一つ(3駅あってどこからも微妙に遠いというロケーションだった)の近くにアパートを借り、引っ越した。私が保証人になった。転居してしばらくは、わりと頻繁にマンションに食べ物や食材を届けに来ていたようだ。昼間は私も奥さんも不在だったので交流はなかったが。 ・結局、その時にかりたアパートの一室で亡くなることになった。24年がたっていた。 ・

妹について把握していたことー5

 ・マンションは、母の車椅子生活を考慮して一階を選んだ。駅からは遠く、近くに新たにバス路線ができるまでは難儀した。小さな庭はあったが、そんなに手入れすこともできず、日当たりの悪さだけが最後までたたることになる。 ・3DKであり、一家4人には十分とは言えないが、なんとか暮らせるはずだったが、父は母との生活を最優先し、妹と私は空いたスペースに住まわせてもらっていたような状態だった。そんな中でも妹は両親の食事を用意するなど頑張ってくれた。 ・しばらくすると、妹は食事の用意をやめた。父が妹の作った食事を食べず、自分で母の分も作り始めたのだ。「母が飲み込みやすいように、刻み食にしないと…」とのことだったと思うが、それを妹にお願いしたり、相談することは無かった。 ・結局自分の負担が増えた父は何回か体調不良で倒れ、救急車で運ばれることがあった。妹も、だんだん感情を露にしなくなった。どうしよう。私はその状況の解決策ばかり考えていた。もっと早く、誰かに相談しておけば良かったのに。

妹について把握していたことー4

 ・父の申し出に従って、マンションを探し、一家4人での生活が始まった。今から考えると、妹は内心反対だったと思う。母の介護で頭がいっぱいになった父親と同居することはどういうことか、身をもって知っていたからだ。この時、もっと話し合っておけばよかったと思う。 ・その時はこちらも在宅での介護についてあまり知識がなく、とにかく一緒に暮らして負担を分担して行こう、としか考えていなかったが、ほかにも色々方法はあった。父親を説得することはできなかったと思うが、ちゃんと考えてなかったことには悔いが残る。当時は必死だったのだが。 ・それから約2年間、妹は同居して母の介護生活を支えてくれた。私は仕事が忙しく(ほぼブラックな会社だったな)家には寝に帰るだけだったので、金銭的なサポートに終始した。父と暮らすことのストレスは、妹がほとんど引き受けてくれていたと思う。今にして思えばだが、それを考える余裕が私にはなかった。

葬儀再延期

 ・妹のことを思い出していたらつい入り込んでしまった。出来事のタイムラインに戻ろう。 ・妹の遺体が発見されてひと月が経ち、DNA鑑定が3週間ほどと言われていたので、見当をつけて準備していた葬儀の日程だったが、まだ鑑定が終わりそうもないので、2週間後にリスケした話は以前に書いた(かな?)。 ・しかしその後も一度警察署に確認したが鑑定は終わる気配がなく、どうやら年を越しそうだという空気が支配的になっていった。仕方ないので家内とも話し合い、もう一度リスケすることにした。 ・葬祭業者とお寺の住職に連絡を取る。どちらからも「どうしたかと思ってました。心配してたんですよ」と言われた。そりゃそうだよな。まず可能な日程を確認しようと住職に確認したところ、「妹さんが戻ってきたら連絡してください。すぐにやってあげましょう」と言われ、お願いした。葬祭業者の担当者にもその旨連絡した。担当者は、電話の切り際に「大丈夫ですか?体調崩さないようにしてくださいね」と言った。よほど疲れた声をしていたらしい。 ・とりあえず、年内にこなさなければならないイベントはなくなった。しかし葬儀ができないということは、手続きを進めることができないということだ。仕方なく妹が残した書類の整理分類などをして過ごす日々だった。

妹について把握していたことー3

 ・結局、父はとっとと仕事を辞め、「俺が(介護を)全てやるから」と言い、母の介護生活が始まった。家族3人で協力する、という発想は、なぜかなかった。同居してた妹は、なぜかそのサポート、みたいな形になっていたと思う。別居していた私は更なり。 ・自分の判断だけでいろいろと決め、相談も共有もせず動き回る父に、私はかなり振り回された。口には出さなかったが、同居していた妹も苦労したと思う。相談でもしてくれたらと思うが、今になって考えると、このころから父、そして私に対しての不満が積み重なっていたのだろうなと感じる。 ・そんな生活が始まって2年ほど、父から突然、「一緒に暮らしてくれ」と連絡があった。事前に相談も状況の共有もない。「俺一人じゃ限界があるから」と言っていたのだが、だったら「少し協力してくれないか」というところから始めるのが筋じゃないの、と妹に確認してみた。 ・妹は同居の件は知らなかった。母の介護についても、すべて自分でやりたがり、妹の協力を仰ぐことは無いという。「私が何かやると絶対にどこか文句を言う」と悲しそうに言っていたことを覚えている。 ・そういえば、昔の父は人に「ありがとう」ということは無かった。言うようになるまでこのあと何年かかかるのだった。結果的に私もその状況に巻き込まれることになるのだが、父に倒れられては大変なので、同居に同意し、4人で暮らせるマンションを購入することにしてしまった。

妹について把握していたことー2

 ・私が30歳で家を出て一人暮らしを始めて6年ほど経ち、母が脳梗塞で倒れた。一命はとりとめたものの、生活全般に介助が必要となり、車いすでの暮らしを余儀なくされた。父は家事は多少こなしたものの、社会的な交渉事が全くできない人だった(銀行からお金がおろせない、という類)ので、あっという間に困難にぶち当たった。 ・母の介護など身の回りの世話は父がやっていたが、それ以外の各所との手続きや食事のための買い出しなどは、妹が担うことになった。母は、緊急入院後、ICUから出ると、短期間の入院とリハビリの後、自宅で介護生活を送ることになる。その前に、その後の暮らしをどうするか、妹となども話し合った。 ・父は当時65歳だったがまだ仕事をしており、妹も私も収入があったので、3人分合わせて何とか乗り切りつつ少しでも貯蓄をして、その後の母の生活の変化に備えよう、ということになった。 ・私は、母の入院中から土日はほぼ病院に行き、ずっと病院にいるだけの父に代わって、必要な物品を買いに走ったり、親族や母の友人に連絡を取ったりしていた。当時、妹は販売の仕事に転職していて、土日は動けないことが多く、こまめに連絡をしていた、と言うか、せざるを得なかったのだが。 ・ある日、打ち合わせのために飯を食おうと妹と約束して店で待っていたら、彼女が憮然とした顔でやってきた。どうしたのか聞くと、父が突然「仕事辞めたから」と言ってきたという。いろいろ考えてきた今後のプランが、全く無駄になった。

妹について把握していたこと

 ・妹とは5歳違い。誕生日が同じ。今回の件を通じて、何度も妹の誕生日を確認されたり、夥しい回数書類に記入したので、いちいち誕生日を確認する手間がなく助かった。 ・5歳差があると、一般的には知らんが、一緒に遊ぶには離れすぎていて(妹が生まれた1年後にはは、こちらは小学生。そっちの友達と遊ぶのが忙しい。かといって、妹の面倒を見るほど成長しているわけではなく)、子どものころからあまり仲が良かったとは言い難いと思う。 ・妹が小学生になったころにはこちらはそろそろ中学生。人口増加でバンバン学校が増えていた時期&地域だったので、ずっと公立だったが小中高全部別。彼女が高校を卒業して専門学校に進んだ頃にはこちらは何とか就職を決めて社会人になっていたので、家族であること以外、ほとんど接点がないまま育った。 ・旅行関係の専門学校を卒業し、彼女が選んだのは長距離カーフェリーの客室乗務員。一度仕事に出ると数日家には帰らないので、ますます交渉は減った。数年して妹から「家族向けの優待パスがあるけど使う?」と言われ、何度か使わせてもらった。 ・仕事のことについて話し合うこともあまりなく、まあ、元気にやっていると思っていた。私が実家を出るとさらに交流はなくなり、客室乗務員をやめたのも、次の仕事について数年たってからだった。彼女はまだ実家で暮らしていた。まだ20代の後半だった。

妹のことを何も知らないー2

 ・最後に妹とたくさん言葉を交わしたのは、平成25年(2013年)に父が亡くなった時のことだ。その6年ほど前に脳梗塞で闘病を続けていた母が亡くなり、父にその後の暮らし方をどうするか相談したら「一人で暮らしたい」というので、母と暮らしていた高齢者向け住宅で少し狭い部屋を契約し、独居生活を続けることとなった。「一人で」とはいうもののその時80歳を超えていたので、妹と私が定期的に訪れ安否確認をしていたので、その情報交換などで、結構妹との交流はあった。 ・父が亡くなった時、その少し前から体調を崩しており、腹部の手術などをしていたので、父のもとへの訪問の回数は増えていて、その件の連絡、調整、相談などあり、妹とと話す回数も増えていた。 ・なくなる数日前に妹と二人で父のもとを訪れて様子を確認。翌日手術の予定だったので妹に付き添いを頼んで私は一足先に帰宅。妹は翌日の手術の付き添いをして帰宅。その2日後だったと思うが父の容体急変の知らせが届き、妹と一緒に病院に駆け付けたが、少し前に父は臨終を迎えていた。 ・その後の葬儀の対応は私と奥さんが中心になって執り行い、部屋の後始末や税金、保険、金融機関などの処理は妹がやってくれた。 ・だから、否応なく妹と言葉を交わすことになった。だから、その時点では、どんな仕事をしているのか、アパートはどこか(父の遺品を少し運んだ)、どんな暮らしぶりか、などについては私も把握していた。 ・その後、急にコミュニケーションが減っていった。そして4~5年経ったら「私のことは放っておいて」発言である。何があったのか、仕事はまだしているのか、全くわからなくなっていた。 ・その時点でできることがあったのではないか。今回の出来事で一番悔いが残ったのはこの点だ。

妹のことについて何も知らない

 ・最後に妹に会って会話をしたのはいつのことだったか。前にも書いたかもしれないが、父の三回忌の時だった、のではないかと思う。まったくあやふやっである。しかも覚えていたのは奥さんだ。 ・葬儀を頼んだ住職に三回忌もお願いして、お経をあげてもらった後、どこかで話をしたことを、奥さんは強い印象とともに記憶していた。 ・母に次いで父もなくなり、独身、一人暮らしの妹が頼れる親族は私とその家族のみ。めったに連絡もせず、没交渉だった妹を心配する言葉を奥さんがかけたところ、「私のことは放っておいて」と言われたことを、彼女は強く記憶していたのだ。 ・「あれだけのことを言うんだったら、それなりの備えがあると思うじゃない?」。後始末をしながら、奥さんは何度もそう言った。 ・放っておいたわけではないが、こちらから積極的に連絡を取らなかった私としては、なんとも言葉がなかった。妹ならいかにも言いそうだということがわかるのだ、家族だから。 ・そのやり取り以降、直接会話することはなく、年に数回電話で話すぐらい。この1年は、電話をしてもつながらず、折り返しもなくなっていた。 ・何か困れば電話ぐらいしてくるだろう。そう考えてかすかな心配をごまかしていた。だから、妹がどんな暮らしをしていなかったのか、どんな仕事をしていたのか、まったくつかんでいなかった。

1か月以上たちましたがー2

 ・この時期一番やりきれなかったのは、やはり検死が終わらず死亡届が出せなかったこと。取り急ぎあちこちにお願いをして準備を進めていた葬儀の日程が迫っていた。 ・状況確認の電話を何度か警察に入れたが、警察も把握できていなくてお手上げ。葬儀のリスケをお願いしたことは以前にも少し書いた。無理を言ってお願いしたが、関係者の皆さん、快く引き受けてくれたのに、事情があって仕方ないとはいえリスケするのは申し訳なく、大きなストレスだった。 ・二番目にやりきれなかったのは、携帯電話(スマホ)の解約ができなかったことだ。全然つながらないキャリアのコールセンター執拗に電話をして連絡し、事情は伝えた。電気料金を電話料金と一緒に払う契約にしていることが請求書などから分かったので、基本料金などの請求が発生しないよう、一刻も早く解約したかったのだが。これも原因は死亡届を出せていないから。 ・本人死亡を伝えなかったら解約できたのか?本人以外が解約手続きを進められるのか、よくわからない。(その後、死亡届を出せたので、解約手続きをしようと思ったのだが、これがまたコールセンターにつながらない。埒が明かず、回線の契約をしたわけでも何でもないキャリアの店舗に泣きつき、ようやく解約手続きができた。機器代金の残金があるので、請求書を送るということだったが、解約してそろそろ3か月が経つのだが、請求書は届かない) ・三番目に… 今日はもう寝よう。明日朝から別の手続きに必要な書類を取りに行かなくてはならんし。 ・080-087_kihon